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今年(昨年)のまとめ3 2011年アニメが危険と思うこのごろ その2
- 2012.01.06 Friday
- アニメ
- 22:11
- comments(2)
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- -
- by 中宮崇
※12/29の日記「今年のまとめ2 2011年アニメが危険と思うこのごろ その1」の続き。
魔法少女まどか☆マギカは面白いけど一方でそのブームは非常に危険だなと感じた理由。
そもそも僕は、日本のこの種の「ループもの」と言われるジャンルに物凄い違和感を持っていた。ループものってのは特に日本で異常に発達したジャンルで、タイムマシンや特殊な能力などで人生などをやり直す、というものである。タイムトラベルものやパラレルワールドものに非常に似ているし一般的には同一視されているが、僕はこれらは全く別のものだと考えている。
タイムトラベル・パラレルワールドもの自体は無論海外にも多く見られる。ゲーテのファウストあたりが最も有名どころであろう(これはループものと言うことも出来る)。このジャンルは海外SFなどでは定番であり、スター・トレックでは人気エピソードの上位を占めている。そして日本ではループものは、アニメや文学などよりも、主にゲーム(特にエロゲー)において発達してきたという経緯がある。
しかし僕は、日本のループものはこれら海外のタイムトラベル・パラレルワールドものとは相当に異質なものだと昔から感じていた。何が違うかというと、海外のタイムトラベル・パラレルワールドものはそもそも日本のループもののように、同じ期間に何度も何度もしつこいぐらいに繰り返すということがあまりない。大抵一度きり、多くても数度のやり直しで終わる(別の期間に別のやり直しをすることは無論ある)。次に、主人公が自身の人生をやりなおす、ということがあまりない(日本の病的ループものに比較的近いバック・トゥ・ザ・フューチャーでさえ、自分の人生をやり直しているわけでも「正解」を求めて何度も同じ時間を繰り返しているわけでもない)。大抵は、主人公は世界や人生に干渉したら自分の元いた世界に戻ってくる(干渉したにもかかわらず、戻ってきた世界が見かけ上・実質的に変化していない場合さえある)。
これに対して、マドマギもそうだが、日本のループものは、「主人公」が「自分」の人生・世界に干渉し、「望む結果になるまで」何度も何度も諦めることなくやり直す、というパターンが多い。実はこれは、これまた日本に多い病的な「自分探しもの」の一変種に過ぎない。
「自分探しもの」は三流ファンタジー作品に多いが(そしてゴキブリメンヘルに腐るほど見られる作家志望の連中は、この手の落書きを量産する)、最も典型的で病的なテンプレは、「平凡で退屈な日常を過ごしてきた取るに足らない自分が、実は血や伝統などにより昔から決められていた特別な存在で、ある日突然目覚めて(あるいは選ばれて)本来の特別な自分を取り戻し活躍する」というものだ。優れた自分探しもの(ハリー・ポッターや十二国記などを思い浮かべよう)の場合には、ここに努力とか反省とか言ったプラスアルファの要素が付け加えられるが、場末の自分探しものにはそんなものは存在しない。この世に「正解」とか「真の姿」なんぞが存在することは稀であるし、現実を変化させればそこに矛盾や歪みも生じるし変えた責任も発生するのだが、現代日本人の多くにはこうした健常者の考え方はフィットしないようだ。
こうした三流の自分探しものは、「今」いる世界を否定し自分ではなく世界を変えることによって全てを解決しようという、まさにブサヨ・ゴキブリメンヘルそのものの他罰的世界観ゆえに病的なのである。そして「今ある現実以外に何か正解としての真のオレ様世界が存在するに違いないからそこに到達するまで何度でもやり直す」というこうした点において、日本のループものは三流自分探しものと価値観や思考パターンを共有している。
海外のタイムトラベルものの多くがマドマギのようなループものと異なる点は、スター・トレックの各種タイムトラベルものエピソードが典型的だが、主人公は自分の人生に自分のため(せいぜい自分を含めた近信者のため)だけに干渉するというよりも、自分も含めたすべての人々を含む世界に干渉するというユニバーサルな視点があるということと、「あるべき正しい世界」を手に入れるためではなく「何らかの理由により逸脱してしまった世界を修正しもとに戻すため」である場合が殆どであるという点である。
だから日本の場合、干渉後には今の我々の世界とは別の理想世界になるという結末が多いのに対し、海外の場合は、干渉後には今の我々の世界に「戻る」という結末が多い。そして「元に戻った」世界が「正解」とか「正義」であるとは限らない。いやむしろ、苦難に満ちた世界であるという結末や、こんなことなら変えないほうが良かったというような結末のほうが多い。ネタバレになるといけないので、架空の例で比較すると、日本の場合は、タイムトラベルでヒトラー青年を殺して第二次大戦やホロコースト、その後の冷戦などのない世界を作ろうとするが、海外の場合は、何らかの理由により死んでしまったヒトラー青年を助けるためにタイムトラベルし「元の」今ある世界に「戻そう」とする話になる(または、日本同様タイムトラベルでヒトラー青年を殺して第二次大戦のない世界を作ろうとするがその結果むしろ元より更に酷い世界になってしまうというバッドエンドのパターンも多い)。つまり病的なまでに夢想的で失敗や不完全性や責任を受け入れられず神レベルにまで肥大化した全能感を特徴とする自分探し日本と違い(注1)海外の場合、徹底的な自己肯定や自省という視点が根底に存在するのである。ここが、日本のループものと海外のタイムトラベル・パラレルワールドものの決定的な違いである。
この違いが生じた理由は、日本人のブサヨ・ゴキブリメンヘルやブサヨ・ゴキブリメンヘル的わがまま(ただのわがままどころか憧れや理想とさえなっている)への甘さが大きいであろうが(何しろ学校やメディアがこぞって「ナンバーワンよりオンリーワン」だの「自分らしさ」だのを子どもに叩きこむほどの異常さだ)、サブカルチャーの分野においてそれを助長し発展させてきたのは、エロゲーである。日本のエロゲーの多くはハーレム的世界観(主人公一人に対し異性多数)、ループ性(以前のプレイとは別の異性を攻略したり別のエンドを目指したりできる)という、二つの大きな退廃性を特徴とする。実際、ここ数年成功しているアニメ作品には、エロゲー原作の物が多いし、オリジナルアニメであってもマドマギも含めてエロゲーの影響を大きく受けている(そして始末が悪いことに、実際CLANNADやひぐらしのなく頃になどを見てもわかるようにこれらのアニメは面白いし名作も多い)。
さて、豊作と言われた2011年のアニメは例年に比べ、こうした意味でのループものが異常なまでに多い。マドマギもそうだし、Steins;Gate(シュタインズ・ゲート)、未来日記なんかもそうだ(どれも面白いという点がまたムカつくが)。いずれも主人公(あるいは実質的主人公)が「自分もしくはせいぜいその近親者」のために「今とは違うあるべき正解の世界」を探し求める徹底的にテンプレな日本的ループもの話である。これまで文学やサブカルにおいて散発的に登場する以外は、エロゲーという、サブカルの中でもさらに一種閉ざされた特殊な世界でだけ楽しまれてきた病的な世界観が、アニメというある程度一般社会にも影響を与える分野にも感染してきたと言える。いや、かつて出す出さないで大論争だったのに今や一般的となった「ヘア」と同様、そうした病的な世界観を受け入れるほどこの日本自体が変質したと言うべきか。作品が日本を変質させたのか、日本の変質が作品を生み出したのか因果関係のほどはなんとも言えないが、海外のタイムトラベルものとは異質な日本に特有の病的なループものが朝日新聞などでも堂々と礼賛されるようになっているということだけは事実である。それどころか噂に聞く所では、子供向け番組である仮面ライダー龍騎もこうしたループものに感染したらしく、その結果恐らく、子どもだけでなくその親までもファン層に取り込まれてしまっているだろうことは想像に難くない。こうした日本の「劣化」は、311以後特に顕在化しここでも何度も指摘してきた日本国民の病的体質と同じ物のように見える。
その3に続くかも。
注1:神レベルにまで肥大化した全能感を特徴とする自分探し日本と違い
実際マドマギでは、実質的主人公である暁美ほむらの無意識な神的全能感に基づく干渉の結果、形式的主人公の鹿目まどかが神的存在に昇華されて、あまり気付かれないが実は同時にほむらも、まどかを生み出しかつまどかと記憶などを共有することによって、現世にとどまりつつまどかと別の意味で神的存在に昇華されてしまったことに注目しよう。ほむらはまど神様を生み出しかつ世界で唯一まど神様の存在を認識することが可能な人物であるという点から見ると(たっくんは別腹ということで)、ある意味まど神様より上位の神であるとも言える(神を生んだだけではないと言う点がマリア様とは決定的に異なる。その点では聖母マリアなどより、神とは異なるがむしろシャーマンや巫女などに近いかも知れない)。奇妙なことにこの点は、恐らく日本の視聴者の殆どには認識されていない。まどかを神と認識する日本人視聴者は多いだろうが、ほむらを神と認識している日本人視聴者は少なかろう。現人神や八百万の神などの伝統のある日本においてはほむらも神であるという認識は本来欧米よりも受け入れられやすいはずなのであるが、思うに現代日本人に蔓延しているブサヨ・ゴキブリメンヘル的全能感が、「ほむらはまど神様と比べものにならないぐらい力のない存在であるし不死でもないし現世にとどまっているからまど神様と違い神ではない」という宗教的に見ても何の根拠もない思い込みをもたらし(「まどかと違いほむらはオレ様とそれほど変わりないじゃ〜ん」ってことですな。近代民主主義思想をつまみ食いして平等主義を単に、偉人をありふれた存在である自分の位置まで引きずり下ろして「何の取り柄もないオレ様でも偉人様と同じ価値」と安心するための矮小な自己満足ツールに貶めてしまった現代日本人にはよく見られる病的思考パターン)、ほむらも神との認識を妨げているのではなかろうか。海外の場合、特にキリスト教の伝統がある欧米の場合は多分少し違っていると思われる。折しも東日本大震災による放映中止により、最終話放送日がイースターの時期と被ってしまったということもあるし。蛇足だがマドマギは、原案の段階ではキリスト教とつながりの深い描写があったのだが、大人の事情でその点をぼかされたという経緯がある(アニメより原案に近い漫画版には、その痕跡が見られる)。本来キリスト教の描写があるはずであったHELLSINGとかとある魔術の禁書目録などでもそうだが、日本では実は天皇制やイスラム教以上にキリスト教は、日本人の多くが気づかない所で批判どころか描写さえ許されないタブーとなっている。イスラムは…きっとマドマギという作品自体が異端になるんじゃなかろうか。
魔法少女まどか☆マギカは面白いけど一方でそのブームは非常に危険だなと感じた理由。
そもそも僕は、日本のこの種の「ループもの」と言われるジャンルに物凄い違和感を持っていた。ループものってのは特に日本で異常に発達したジャンルで、タイムマシンや特殊な能力などで人生などをやり直す、というものである。タイムトラベルものやパラレルワールドものに非常に似ているし一般的には同一視されているが、僕はこれらは全く別のものだと考えている。
タイムトラベル・パラレルワールドもの自体は無論海外にも多く見られる。ゲーテのファウストあたりが最も有名どころであろう(これはループものと言うことも出来る)。このジャンルは海外SFなどでは定番であり、スター・トレックでは人気エピソードの上位を占めている。そして日本ではループものは、アニメや文学などよりも、主にゲーム(特にエロゲー)において発達してきたという経緯がある。
しかし僕は、日本のループものはこれら海外のタイムトラベル・パラレルワールドものとは相当に異質なものだと昔から感じていた。何が違うかというと、海外のタイムトラベル・パラレルワールドものはそもそも日本のループもののように、同じ期間に何度も何度もしつこいぐらいに繰り返すということがあまりない。大抵一度きり、多くても数度のやり直しで終わる(別の期間に別のやり直しをすることは無論ある)。次に、主人公が自身の人生をやりなおす、ということがあまりない(日本の病的ループものに比較的近いバック・トゥ・ザ・フューチャーでさえ、自分の人生をやり直しているわけでも「正解」を求めて何度も同じ時間を繰り返しているわけでもない)。大抵は、主人公は世界や人生に干渉したら自分の元いた世界に戻ってくる(干渉したにもかかわらず、戻ってきた世界が見かけ上・実質的に変化していない場合さえある)。
これに対して、マドマギもそうだが、日本のループものは、「主人公」が「自分」の人生・世界に干渉し、「望む結果になるまで」何度も何度も諦めることなくやり直す、というパターンが多い。実はこれは、これまた日本に多い病的な「自分探しもの」の一変種に過ぎない。
「自分探しもの」は三流ファンタジー作品に多いが(そしてゴキブリメンヘルに腐るほど見られる作家志望の連中は、この手の落書きを量産する)、最も典型的で病的なテンプレは、「平凡で退屈な日常を過ごしてきた取るに足らない自分が、実は血や伝統などにより昔から決められていた特別な存在で、ある日突然目覚めて(あるいは選ばれて)本来の特別な自分を取り戻し活躍する」というものだ。優れた自分探しもの(ハリー・ポッターや十二国記などを思い浮かべよう)の場合には、ここに努力とか反省とか言ったプラスアルファの要素が付け加えられるが、場末の自分探しものにはそんなものは存在しない。この世に「正解」とか「真の姿」なんぞが存在することは稀であるし、現実を変化させればそこに矛盾や歪みも生じるし変えた責任も発生するのだが、現代日本人の多くにはこうした健常者の考え方はフィットしないようだ。
こうした三流の自分探しものは、「今」いる世界を否定し自分ではなく世界を変えることによって全てを解決しようという、まさにブサヨ・ゴキブリメンヘルそのものの他罰的世界観ゆえに病的なのである。そして「今ある現実以外に何か正解としての真のオレ様世界が存在するに違いないからそこに到達するまで何度でもやり直す」というこうした点において、日本のループものは三流自分探しものと価値観や思考パターンを共有している。
海外のタイムトラベルものの多くがマドマギのようなループものと異なる点は、スター・トレックの各種タイムトラベルものエピソードが典型的だが、主人公は自分の人生に自分のため(せいぜい自分を含めた近信者のため)だけに干渉するというよりも、自分も含めたすべての人々を含む世界に干渉するというユニバーサルな視点があるということと、「あるべき正しい世界」を手に入れるためではなく「何らかの理由により逸脱してしまった世界を修正しもとに戻すため」である場合が殆どであるという点である。
だから日本の場合、干渉後には今の我々の世界とは別の理想世界になるという結末が多いのに対し、海外の場合は、干渉後には今の我々の世界に「戻る」という結末が多い。そして「元に戻った」世界が「正解」とか「正義」であるとは限らない。いやむしろ、苦難に満ちた世界であるという結末や、こんなことなら変えないほうが良かったというような結末のほうが多い。ネタバレになるといけないので、架空の例で比較すると、日本の場合は、タイムトラベルでヒトラー青年を殺して第二次大戦やホロコースト、その後の冷戦などのない世界を作ろうとするが、海外の場合は、何らかの理由により死んでしまったヒトラー青年を助けるためにタイムトラベルし「元の」今ある世界に「戻そう」とする話になる(または、日本同様タイムトラベルでヒトラー青年を殺して第二次大戦のない世界を作ろうとするがその結果むしろ元より更に酷い世界になってしまうというバッドエンドのパターンも多い)。つまり病的なまでに夢想的で失敗や不完全性や責任を受け入れられず神レベルにまで肥大化した全能感を特徴とする自分探し日本と違い(注1)海外の場合、徹底的な自己肯定や自省という視点が根底に存在するのである。ここが、日本のループものと海外のタイムトラベル・パラレルワールドものの決定的な違いである。
この違いが生じた理由は、日本人のブサヨ・ゴキブリメンヘルやブサヨ・ゴキブリメンヘル的わがまま(ただのわがままどころか憧れや理想とさえなっている)への甘さが大きいであろうが(何しろ学校やメディアがこぞって「ナンバーワンよりオンリーワン」だの「自分らしさ」だのを子どもに叩きこむほどの異常さだ)、サブカルチャーの分野においてそれを助長し発展させてきたのは、エロゲーである。日本のエロゲーの多くはハーレム的世界観(主人公一人に対し異性多数)、ループ性(以前のプレイとは別の異性を攻略したり別のエンドを目指したりできる)という、二つの大きな退廃性を特徴とする。実際、ここ数年成功しているアニメ作品には、エロゲー原作の物が多いし、オリジナルアニメであってもマドマギも含めてエロゲーの影響を大きく受けている(そして始末が悪いことに、実際CLANNADやひぐらしのなく頃になどを見てもわかるようにこれらのアニメは面白いし名作も多い)。
さて、豊作と言われた2011年のアニメは例年に比べ、こうした意味でのループものが異常なまでに多い。マドマギもそうだし、Steins;Gate(シュタインズ・ゲート)、未来日記なんかもそうだ(どれも面白いという点がまたムカつくが)。いずれも主人公(あるいは実質的主人公)が「自分もしくはせいぜいその近親者」のために「今とは違うあるべき正解の世界」を探し求める徹底的にテンプレな日本的ループもの話である。これまで文学やサブカルにおいて散発的に登場する以外は、エロゲーという、サブカルの中でもさらに一種閉ざされた特殊な世界でだけ楽しまれてきた病的な世界観が、アニメというある程度一般社会にも影響を与える分野にも感染してきたと言える。いや、かつて出す出さないで大論争だったのに今や一般的となった「ヘア」と同様、そうした病的な世界観を受け入れるほどこの日本自体が変質したと言うべきか。作品が日本を変質させたのか、日本の変質が作品を生み出したのか因果関係のほどはなんとも言えないが、海外のタイムトラベルものとは異質な日本に特有の病的なループものが朝日新聞などでも堂々と礼賛されるようになっているということだけは事実である。それどころか噂に聞く所では、子供向け番組である仮面ライダー龍騎もこうしたループものに感染したらしく、その結果恐らく、子どもだけでなくその親までもファン層に取り込まれてしまっているだろうことは想像に難くない。こうした日本の「劣化」は、311以後特に顕在化しここでも何度も指摘してきた日本国民の病的体質と同じ物のように見える。
その3に続くかも。
注1:神レベルにまで肥大化した全能感を特徴とする自分探し日本と違い
実際マドマギでは、実質的主人公である暁美ほむらの無意識な神的全能感に基づく干渉の結果、形式的主人公の鹿目まどかが神的存在に昇華されて、あまり気付かれないが実は同時にほむらも、まどかを生み出しかつまどかと記憶などを共有することによって、現世にとどまりつつまどかと別の意味で神的存在に昇華されてしまったことに注目しよう。ほむらはまど神様を生み出しかつ世界で唯一まど神様の存在を認識することが可能な人物であるという点から見ると(たっくんは別腹ということで)、ある意味まど神様より上位の神であるとも言える(神を生んだだけではないと言う点がマリア様とは決定的に異なる。その点では聖母マリアなどより、神とは異なるがむしろシャーマンや巫女などに近いかも知れない)。奇妙なことにこの点は、恐らく日本の視聴者の殆どには認識されていない。まどかを神と認識する日本人視聴者は多いだろうが、ほむらを神と認識している日本人視聴者は少なかろう。現人神や八百万の神などの伝統のある日本においてはほむらも神であるという認識は本来欧米よりも受け入れられやすいはずなのであるが、思うに現代日本人に蔓延しているブサヨ・ゴキブリメンヘル的全能感が、「ほむらはまど神様と比べものにならないぐらい力のない存在であるし不死でもないし現世にとどまっているからまど神様と違い神ではない」という宗教的に見ても何の根拠もない思い込みをもたらし(「まどかと違いほむらはオレ様とそれほど変わりないじゃ〜ん」ってことですな。近代民主主義思想をつまみ食いして平等主義を単に、偉人をありふれた存在である自分の位置まで引きずり下ろして「何の取り柄もないオレ様でも偉人様と同じ価値」と安心するための矮小な自己満足ツールに貶めてしまった現代日本人にはよく見られる病的思考パターン)、ほむらも神との認識を妨げているのではなかろうか。海外の場合、特にキリスト教の伝統がある欧米の場合は多分少し違っていると思われる。折しも東日本大震災による放映中止により、最終話放送日がイースターの時期と被ってしまったということもあるし。蛇足だがマドマギは、原案の段階ではキリスト教とつながりの深い描写があったのだが、大人の事情でその点をぼかされたという経緯がある(アニメより原案に近い漫画版には、その痕跡が見られる)。本来キリスト教の描写があるはずであったHELLSINGとかとある魔術の禁書目録などでもそうだが、日本では実は天皇制やイスラム教以上にキリスト教は、日本人の多くが気づかない所で批判どころか描写さえ許されないタブーとなっている。イスラムは…きっとマドマギという作品自体が異端になるんじゃなかろうか。
- コメント
- なげー ><
-
- かなぶん
- 2012/01/06 11:43 PM
- さらに長くなってるよ><
-
- かなぶん
- 2012/01/07 3:47 AM
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