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    トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」が難解だとの叫び2

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      トマス・ピンチョン「競売ナンバー49の叫び」が難解だとの叫び1の続き。

      さて、読書会前なので、参加者による読み方にバイアスを与えないために突っ込んだことは書かないが、僕なりの作品理解のための手がかりを述べて見ることにする。何度も繰り返すが、ポストモダン文学というものは解釈の多様性や、そもそも解釈可能なのかどうかというところまでをテーマやその特徴としている以上、ここに書くことは正解でもお手本でもなんでもないので、あくまでも参考にとどめておくように。

      ○「競売ナンバー49の叫び」が壊そうとしているものは何か

      くり返しになりますが、ポストモダン文学には、読者の固定概念や思い込みを破壊することによって新たな見方を提供するというというものが多くあります。では、本作では一体何を破壊しようとしているのでしょうか?
      固定観念や思い込みというものは、それぞれの文化や時代によって異なります。つまり、ポストモダン小説を味わうためには、著者が一体どのような読者を対象にしているのかが重要になります。本作は1960年代アメリカの文化を共有している人々を主たる読者として想定しているわけで、著者のピンチョンは、1960年代アメリカを生きた人々が持っていたであろう固定概念を壊そうとしていたと思われます。では、1960年代アメリカには一体どのような、壊すべき固定概念が存在したのでしょうか?それを理解する手がかりを見て行きましょう。

      ○アメリカの郵便制度の特殊性

      アメリカには日本と決定的に異なる点が多数存在しますが、本作で扱われる郵便制度もその一つです。アメリカ人にとって郵便制度というものは、日本人が郵便制度に対して持っているイメージとは大きく差があります。日本人が本作にピンと来ない原因の多くは恐らく、この点に思い至り難いところにあります。
      まず、アメリカは日本のような中央集権国家ではないことに注意してください。国に匹敵する強力な権限を持つ「州」が集まってできたのがアメリカです。州によって法律も制度も全く異なるような国です。州が変わると税金も違えば教育制度も違います。運転免許や交通ルールも州ごとに異なります。それどころか死刑制度の有無だって、州によって違ってきます。なぜなら民法や刑法を制定し運用する権限は連邦にではなく州にあるためです。
      そればかりか、警察や軍だって、一義的には州に権限があります。だから各州は選挙で選ばれたシェリフ(保安官)が治安を維持し、正業の傍ら週末にパートタイムで訓練を受けた陸空(海はありません)の州兵が州知事の指揮下で軍事行動を行い、有事には(一時的に連邦軍に編入されて)海外に派兵されます(第一次大戦、第二次大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、イラク戦争の際にも派遣されました)。911の同時多発テロが発生するまでアメリカ軍には、欧州軍司令部や太平洋軍司令部など世界中に司令部があっても、本土防衛のための連邦軍司令部さえ存在しない程でした。本土防衛は各州ごとの州兵の担当だったのです。そういう事情があるため、911の時に空を飛び回っていたF16戦闘機はアメリカ空軍所属ではありません。パートタイムのパイロットが操縦する州兵空軍のものです。映画ランボーに登場する、ランボーを山中で追い掛け回していた兵士たちもアメリカ陸軍ではなく、州兵です。普段はサラリーマンとか農夫として働き週末だけ訓練して手当をもらっているおっさんたちが、州知事の命令でランボーとかいう荒くれ者を狩りだすために動員されていたわけです。
      大統領を長とする中央政府である連邦政府にはFBIや連邦軍などの中央組織は別にありますが、それらはあくまでも、州をサポートしたり国外向けの任務を遂行する存在に過ぎません。これほど地方分権的な国家なわけですから、当然「日本国民」という意識と「アメリカ国民」という意識との間には大きな違いが出てきます。アメリカよりも州に忠誠心を持つのが「アメリカ市民」には比較的多く見られる傾向です。
      そんなわけで、南北戦争から150年以上経った現在でも、自分が住む州の連邦からの離脱・独立を望む人々の勢力は政治的に無視できませんし、日本でよくある「沖縄独立論」や「北海道独立論」のような夢想的な議論とは違い、「カリフォルニア州独立論」といったようなものは合衆国市民の多くにとっては、相当程度にリアリティのある話なのです。最近でもオバマ大統領に対する失望から、各州の分離主義者による政治活動が活発化しているという報道があります。

      米国で州の独立を求める声高まる
      http://www.afpbb.com/article/politics/2651958/4751654

      そんな、警察も軍も裁判所も州ごとにばらばらなアメリカにおいて、一般市民が日常的に「連邦政府」を意識できる巨大機関が1つだけ存在します。それが、郵便局です。
      現在は合衆国郵便公社により運営されている郵便制度ですが、1971年までは合衆国郵政省の管轄下にありました。つまり、FBIや連邦軍や連邦裁判所のお世話になる機会が稀な一般的アメリカ市民にとって、郵便屋さんというのは、日常的に「連邦政府」というものを実感させられるほとんど唯一の組織なのです。そのため、アメリカ人にとって郵便屋さんというものは、一種の心の支えや合衆国統一の象徴といった、ある意味イデオロギー的な側面を持っています。アメリカ映画やドラマ、特に西部劇などにはよく、郵便配達人に飲み物などを振る舞うといったシーンが出てきますが、これらは「郵便屋さん=アメリカ」とさえ考えてしまえるアメリカならではの土壌と密接に関連しています。ケビン・コスナー主演で映画にもなったデイヴィッド・ブリンのSF小説「ポストマン」では、核戦争でバラバラに崩壊したアメリカを、なんとなりすましの郵便配達人が中心となって再統一する、なんて話にまでなってしまいます。

      Wikipediaより ポストマン (小説)
      http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3_(%E5%B0%8F%E8%AA%AC)

      こう考えると、「競売ナンバー49の叫び」における合衆国郵便制度に対する陰謀論めいた描写には、アメリカ人にとって特別な意味があることがわかります。それは単なる変人やキチガイの妄想的運動ではなく、中央政府に対する不信感を基盤とした、反連邦活動・反政府活動という側面があるのです。特に1960年代アメリカにおいては、ベトナム戦争や不況、人種対立など(州兵や連邦軍まで介入しました)、様々な政府に対する不信や不満が渦巻いていました。そんな中でアメリカ人にとっては、本書が描いているような陰謀論は、ただの荒唐無稽な笑い話として片付けられないようなある程度のリアリティや魅力を持っていたのです。

      ○言語の使用がもたらす固定概念

      言語は、そもそも何語を用いるかによって、その人の考え方を固定化しまう傾向があります。興味のある人は、ソシュールとかレヴィ・ストロースとかノーム・チョムスキーあたりをググってください。
      我々は、英語を話すか日本語を話すかといったことは、その人の考え方や思想に影響をあたえることはない、人類みな一緒!などと考えがちです。それが正しいかどうかは別にして、ポストモダン小説の多くは、そうした思い込みに挑戦するため、言葉遊びを多用する傾向があります。例えば本作でも、Postmaster(郵便局長)をPotsmasterなどと言い換えてみたり、登場人物の名前に色々なネタが隠されていたりします。こうした仕掛けを用いることにより、言葉の多義性やコミュニケーションの困難さが明らかにされ、「書けば伝わる、話せば伝わる、そこに誤解の余地はない」という言語に対する思い込みが崩されて行きます。

      ○マイノリティ問題

      本書では黒人、ヒスパニック移民、ゲイ、女性など、様々なマイノリティが登場しますが、1960年代は、公民権運動を始めとする各種のマイノリティ問題が論じられてきた、いや争われていた時期です。特に黒人問題については、64年にケネディー大統領が公民権法を制定しますが、そこに至るまでの道はまさに血塗られた道でした。南北戦争は言うに及ばず、57年にはアーカンソー州において、黒人学生が白人向け高校に入学するのを阻止するために州知事が州兵を差し向け、それに対抗するために、第二次世界大戦の英雄でもある当時のアイゼンハワー大統領が連邦軍を差し向け黒人学生を護衛するなどして、軍事衝突の一歩手前まで来たほどです。有名なキング牧師の暗殺もこの頃です。

      ○冷戦と平和運動

      62年のキューバ危機は、アメリカ人にとっては勿論のこと、世界中の人々に核戦争による人類滅亡に対する危機感を植えつけました。30歳未満の人々には想像もつかないかも知れませんが、日本人である70年生まれの僕でさえ、子供時代はある程度のリアリティを持って、「ある日突然核ミサイルが降ってきて自分が死ぬのは勿論のこと人類が滅びるかも知れない」という漠然とした不安を多かれ少なかれ抱いていたものです。
      また、ベトナム戦争において、「世界最強かつ正義と自由をもたらすアメリカ軍」というアメリカ市民のもつイメージが崩れ始めたのもこの頃です。

      ○第二次世界大戦敗戦国の経済的勃興

      60年代といえば、第二次大戦で日独伊などの枢軸国と兵士として戦った世代は40-50代の中堅世代になっています。彼らにとってドイツ人はナチであり、日本人はジャップです。つまり、野蛮な敵国人です。そうした敵を打ち倒し、世界に自由と平和と正義をもたらすために戦ったというのが、彼らの意識です。ところが、彼らの子どもの世代はそうではありません。20代のアメリカ人にとって、日本人とは、何かクールな電気製品やバイク、特撮映画などを作る人々です。作中でも、ソニーのトランジスタラジオや、ホンダのバイク、ゴジラ号と名付けられた船などが登場します。同じようにドイツ人は、なんだかかっこいいロック向けファッションを提供してくれる人々だったりします。作中では、ナチスの制服やハーケンクロイツの腕章なんてものまで売られています。当然こうした現象は、命をかけて戦ってきた中年以上の世代にとっては我慢できるはずがありません。

      ○世代間対立

      以上の各問題の背景には、実はもう一つ世代間における考え方の差という問題が存在します。作中でも、主人公らが不良少年達や大学生・大学院生といった若い世代とのギャップに戸惑ったり憤ったりする場面が多数出てきます。
      この時代においてこうしたマイノリティ問題に一応の解決が見られたり、平和運動が活発化したりした背景には、当時の学生運動やヒッピー文化などを始めとする、若い世代の新しい考え方の存在が大きく関わってきます。
      彼らの親の世代にとってアメリカとは、作中にも出てくるアンクルサムそのものでした。アメリカは良き父であり正義であり繁栄をもたらす存在だったのです。ところが、若者たちにとってはそうではありません。アメリカとは不正と悪徳にまみれた権威主義的な暴力オヤジのようなものなのです。しかも若者にとっては、もはや経済的にも豊かさを約束してくれる存在ではなくなってしまっています。

      ○夢と現実との狭間

      そもそも本作で描かれた陰謀は、事実なのでしょうか。それとも、主人公のただの妄想なのでしょうか。作中には何ら答えは示されていません。
      このように、「事実」とは何か?だいたい「事実」なんて存在するのか?という問いも、ポストモダン文学ではよく見られるテーマです。例えばこれまでの課題本を見ても、ポール・オースターの「最後の物たちの国で」は送られてきた手紙がそのまま小説となっているような構成になっていますが(実は違うのですが)、まるで北朝鮮のような破綻国家での困窮生活を訴えるその手紙の内容が事実なのかどうなのかさえ示されていません。ひょっとしたら、そこに書かれている内容はすべてフィクションか間違いなのかも知れませんし、それどころか、手紙の書き手自体がもともとその国にいるわけではなく、実は精神病院にでも入れられていて、そこから妄想を書き綴って送りつけているだけなのかも知れません(著者が意図的に隠してしまい書いていないためあまり気付かないことですが、主人公は手紙の書き手ではなく、手紙を受け取って読んでいる人間だということに注意してください)。

      ○「自分」とは何か?

      いわゆるアイデンティティ問題ですね。「自分」とか「自己」なんてものが存在するのかというのも、ポストモダン文学が好んで扱うテーマです。作中でも、主人公やその夫を始めとして、まるで多重人格のようになったり、突然性格が変わったりして戸惑う場面が見られますし、悪ガキ達がみんな同じように見えて判別がつかなかったりします。また、登場人物の描写自体が非常に希薄なものになっています。
      これまでの課題本においても、カルヴィーノ「見えない都市」ではフビライとマルコ・ポーロという実名が使用されていますが、それら登場人物の特徴については殆ど描かれず、実はただの記号的扱いになっています。ポール・オースターの作品群においても同様です。カフカにいたっては、主人公の名前がKなどと、文字通り記号化されてしまったりします。
      一般的に言ってポストモダン文学は、人間などの「主体」よりも、主体同志の関係性に注目します。人間というものはそれ自身によってではなく人間関係の構造によって存在の意味や意義などが決まってくるというわけです。ポストモダン文学が人物描写にあまり力を入れないのにはそういう理由もあります。そしてそこにとどまらず(そこでとどまるとただの近代文学になってしまいます)、そうした関係性を破壊してみせて「人間」の個性とか存在意義などに疑問を感じさせるというのが、ポストモダン小説のセオリーの一つです。本作においても、主人公の女性がゲイばかりいる店に入った瞬間、客の誰からも興味を持たれなくなり孤立するというシーンがあります。これは人間関係を構築する上で重要な「女性」という一つの属性が、実は社会や環境の変化によって簡単にその意義をひっくり返されてしまうことがあるということを示しています。

      ○偽装の物語

      本作では偽造切手や偽インディアン、剽窃本などの様々な「偽物」が登場しますが、ポストモダン小説は、様々なものを偽装します。「本物」と「偽物」の違いは何?区別することに意味があるの?というのは、ポストモダン小説が好んで扱うテーマの一つです。時には作品のジャンルさえ偽装する場合があります。例えば本作は推理小説を偽装しています。ポール・オースターの一部の作品も同様に探偵小説や推理小説を偽装していますね。同じオースターでも「最後の物たちの国で」は前述のように、手紙やルポルタージュを偽装しています。カルヴィーノ「見えない都市」は、歴史小説や都市論を偽装していました。日本で言うと、田中康夫「なんとなく、クリスタル」はバブル時代のカルチャーガイドを偽装しています(田中康夫自身は、「偽装じゃない!まじめに書いたんだ!」とか言っているようですが)。そうした偽装に沿って読むのも一興ですが、偽装に囚われて固定概念のまま読み進めると、罠にハマり、何が書いてあるのかよくわからずに読み終えてことが往々にしてあります。

      とまぁ、これぐらいのことを下調べしておくと、今回の課題本もかなり読みやすくなると思います。以上のようなことを踏まえたアメリカ人にとって本作品は、決して難解で小難しい文学作品ではなく、一種の筒井康隆的ギャグ小説やSF・ファンタジー小説の類として読まれているものであるということを忘れずに、気楽に読んでみてください。

      明日に続く…かも?
      http://nakamiya893.jugem.jp/?day=20120116

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