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    • 2017.08.14 Monday
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    これからの「遊び」の話をしよう1 構造主義もどきの見地から

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      3/3のひな祭り、読書会の方々に連れられて、41歳にして初めて「クラブ」デビューしてきた。

      少なくとも高専時代から既に、踊ったり飲んだりするヒマがあればその時間で本を読んでいたいという基本路線で生きてきたため、その場に「対話」とか「学習」とか「観察」とか何らかの付加価値がないぜーったいに自腹どころか接待であってもその手の遊び場に脚を運ぶことはなかったしこれからも脚を運ぶことはないだろう。要は「どこで遊ぶか」ではなく「誰と遊ぶか」が重要なわけだが、その点で言えば今回は事前の予想を裏切らず、知見が色々と得られた、実に有意義な「クラブ」デビューだった。

      ○当日のスケジュール

      16:30〜19:00 読書会・レヴィ=ストロース「悲しき熱帯」(JAZZ茶房 愬)
      19:00〜23:00 コアタイム(JAZZ茶房 愬)
      23:00〜05:00 クラブ(錦・SOUL BAR JAP)
      05:00〜08:00 カラオケ(JOYJOY 伏見ZXAセガ店)

      ○「遊び」が教養だった時代

      今回再確認したことの一つが、現代の若者にとって、この手の「遊び」へのアクセスが社会的にかなり難しくなっているのではないか?という問題である。
      自分が学生だった頃、つまり約20年ほど昔における若者の「遊び」の場は、ディスコとかクラブとかになるのだろうが、自分にはその手の「遊び」の経験は全くない。にもかかわらず、一般教養としてはなぜかそれなりに、その手の場の作法や雰囲気などの知識・教養はある。これは恐らく、漫画やドラマのおかげである。
      現代の20代の若者にとって、「遊び」の場の入り口は恐らくカラオケということになるのだろうが(20余年前にはまだカラオケは今ほど一般的ではなかった)、そこから先の様々な「遊び」の場に進むには、20年前と違い相当のハードルがあるのではなかろうか。何しろ、そもそもそうした遊び場の作法についての事前知識を入手しにくいし、上司や先輩などの連れていって教育してくれる先人がなかなかいないから、その点でも越えるべき壁は高いと思われる。
      自分は前述のように、その手の「遊び」の場には全く興味がなかったわけだが、それにもかかわらず、そうしたハードルを感じたことは全くなかった。行こうと思わないから行かなかっただけで、行きたいと思えばいつでも行ける環境が社会的に整えられていた。しかし現代において、そうした環境はまだ存在しているのであろうか?

      自分が若かった頃について思い返してみよう。
      中学生だった80年代前半から半ばにかけては洋楽ブームで、同級生は猫も杓子もなんだかよくわからん英語の歌をラジオなどからカセットテープに録音して聞き、歌い、踊りまくっており、自分のようにそうしたものに興味を全く示さず本ばかり読んでいて、ザ・ベストテンさえ見なかったような変人は圧倒的少数派であった。それでも、部活や友達付き合いをしていれば、その手の知識は最低限度、自然と入ってきて身についていた。
      そうしたヒューミント以外からのシギント方面からも、例えば当時馬鹿でもチョンでも見ていた中山美穂のドラマ「毎度おさわがせします」なんかは、ディスコのエピソードが頻繁に出てきたし、ましてや当時一世を風靡していた「トレンディードラマ」を見ていた人間であれば(僕は見ていなかったが)、誰でもそうした場での作法を自然に身につけることができたはずである。何しろあの3年B組金八先生でさえ、昔はディスコやクラブを舞台とした回が結構あったのだ。
      当時のアニメや漫画にも、その手の遊び場は頻繁に描写されていた。中学時代に読んだ「きまぐれオレンジ☆ロード」とか、少し後の「シティーハンター」あたりが、自分にとってのその手の教科書になっていた(教科書だという意識は全く持っていなかった点が重要である)。
      北海道のド田舎を出て本州の大学に入ってからは、そこに先人からの手引きが加わることになる。大学の先輩や遊び慣れた友人たちからの誘い以外にも、自分の場合は指導教官がゼミ生全員を率いて、行きつけの高級会員制クラブなどに連れて行ってくれたりして、貧乏学生にとっては未知の世界を覗かせてもらったりしていた。今なら教員がそんなことしたらニュースになってしまうだろうが。

      ○教養としての「遊び」の衰退と国際競争力の低下

      当時の自分と比べて、現代の若者の環境はどうなっているだろうか。
      まず、知識面だけ見ても、マンガやドラマなど身近なメディアにおいて、その手の教養が自然に流入してくるという状況がなくなっているように思う。もちろん、当時と違って今はインターネットがあるから、ヤル気さえあれば昔よりも遥かに質も量も上回る知識を得ることは可能であろう。しかし昔と違い、「ヤル気がない人間でも自然に教養が身に付いてしまう」状況であるとはとても言えない。ネットで高度な教養を身につけることが出来るのは、ヤル気がある人間だけであって、そこまでの意欲のない僕みたいな人間は、恐らくいつまでも教養を身につけることはできない。
      次に、人間環境の問題。20年前よりも学校の先輩後輩の関係、職場の上司部下の関係は確実に弱体化している。先人が未経験者を無理やり遊びの場に連れて行くという機会も、格段に減っているだろう。ましてや大学の指導教官がゼミ生を率いて飲ませに行くなんて、今では社会が許さない。
      当日の課題本「悲しき熱帯」にも、南米の部族社会におけるイニシエーションの話が出てきているが、現代社会においても、社会的立場が上の者が下位の者を遊び場に強制的に連れて行く様々なシステムというのは、イニシエーションとしての役割を果たしている。それにより下位者は、「遊び」についての教養と経験を低コスト・低リスクで身につけることができ、それまで未経験で関心を持たなかった(場合によっては嫌悪さえしていた)分野について関心を持ったり自らコストを支出して遊ぶように意識を変化させられる機会を得る。それは単なる「遊び」という一見無為の話にとどまらず、実体経済や社会構造のダイナミズムにとっても極めて重要な要素である。そうした「遊び」の場は、「祭り」としての異空間でもあるという事実も寄与し、職場や学校などの普段の社会関係とは全く別の人間関係を築く異文化交流のチャンスを提供してくれる場でもある。実際僕が大学生時代に指導教官が高級クラブなどに連れていってくれた時にも、普段は絶対に出会うことができないような各界の有力者と、年齢や分野を越え気楽に交流することができた。そしてそうした遊び人たちは一般に、ネットでチャットだけしている人々よりも遥かに多額の金を落とすし、より多く稼ごうとする。それは単なる金の大小の問題だけではなく、個人の社会へのコミットメントの大小やコミュニケーションの多寡、そしてそれに伴うコミュニケーションスキルの自然的向上などを通じ、社会の活力や安定性にまで発展する話なのである。
      現代においてはネットの発達により、「ツイッターで一無名人がソフトバンクの孫正義と対話出来ました」などという「美談」をマスゴミが強調するため、ネットがかつての遊び場の代替物となっていると思われがちだが、これは極めて危険な錯覚であるように思えてならない。前述の通り、ネットを使っての情報収集やコミュニケーションにおいては「ヤル気」が無ければゴールに辿りつけない。インターネットは万人を底上げする夢のツールなのではない。天才をより天才に、バカをよりバカにするアンプに過ぎない。バカがネットを使っても、ハウリングで(彼自身を含めた)人類全体に迷惑をかけるだけだ。その点が、馬鹿でもチョンでもより賢くしてくれる、「遊び」の場へといざなう社会的強制力システムとネットとの違いである。
      その点からすると、20年前に比べて「遊び」への社会的強制力が弱体化し、教養拡散マシーンとしてのテレビの影響力も低下し、ネットがそれに取って代わった現代日本は、全世界的に見ても相当に、文明としての生命力・競争力が危険水域に達しているのではなかろうか。構造主義が我々にささやくように、社会の維持のためにはコミュニケーションの持続が極めて重要なのである。それにもかかわらず、現代日本においては、コミュニケーションスキルを学ぶ場、異文化コミュニケーションを図るチャンスの場としての「遊び」の場が若者の手元から遠ざかり、40代独身貴族や中産階級、ネットスキル上級者の特権と化している。少なくとも、「飲み屋の代わりにネットを」となってしまっている日本の現状は、海外のネット先進国に比べても相当歪であるといえる。「飲み屋もネットも」がグローバルスタンダードなのだ。そうでなければ、ネットからこぼれ落ちてしまう人々はどこにも行き場がなくなってしまう。

      ○安全保障としての「遊び」

      これまで読書会でも取り上げられた課題本、レイチェル・ボッツマン;ルー・ロジャース「シェア <共有>からビジネスを生みだす新戦略」やクリス・アンダーソン「フリー」(そして見方によっては東浩紀「一般意志2.0 ルソー、フロイト、グーグル」も)など、ネットが「人類の幸福を増進する」というメッセージ性を持つ言説に触れるたびにいつも感じることだが、ネットはバカや無気力者をこれまで以上に不幸にする気がしてならない。確かに人類全体としての総幸福はプラスになるのであろうが、それは全ての個人の幸福をプラスにすることとイコールではない。ネットで積極的に情報収集やコミュニケーションに参加する人々は幸福にしその能力をこれまで以上に引き出すであろうが、そうでない人々はこれまで以上に阻害されることになるだろう。そしてその歪は、いつか日本人全体、いや人類全体にしっぺ返しを食らわせることになるのではないか。その最初期の兆候が、社会で阻害されネットでも受け入れられず期待を打ち砕かれた、秋葉原通り魔事件の加藤智大なのではなかろうか。
      これまでであれば我々は、そうした落伍者を打ち捨てたまま、時たま彼らがキレて数人をぶち殺しニュースになるたびにそれに憤ってやがて忘れていけばそれで良かった。しかし9・11同時多発テロで明らかになったように、個人でできる殺戮と破壊の規模は、まさにネットの発達も相まってかつてより格段に向上している。加藤がたまたま無能者であったためせいぜい車で人を轢き殺す程度のスキルしかなかったから良かったようなものの、彼に薬学や生物学などを理解できる基礎的教養があれば、あとはネットを使っていくらでも大量殺戮の手段を実現できたかも知れないのだ。そういう危機を避けるためには我々は、若者のスキル獲得及び出会いの場としての「遊び」について、国民的に考えなければならない日が来るかも知れない。

      日本社会の停滞と治安低下が叫ばれる昨今、その解決のために教育や社会保障などの政治的手段、警察力の強化や厳罰化ばかりが注目されている。政治家であればそうした傾向はやむを得ないのかも知れないが、一般国民とまでは言わないが、せめて学者やジャーナリストであれば、「遊び」が持つ教育や治安維持を始めとする社会的機能の利用にも目を向けてほしいものだ。それが構造主義に限らず、「学問の実践」なんでないの?

      続く。
      http://nakamiya893.jugem.jp/?eid=3462

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