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    • 2017.08.14 Monday
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    反日マンガの世界(晋遊舎)雁屋哲「美味しんぼ」批判記事(続き)

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      (続き)

      マッキントッシュという優れたシステムがあることを知らないばかりに大勢の人間がコンピュータで苦労しているのが二十世紀の悲劇のひとつなんだけど、藤村さんもその一人ってことさ」
      「そんなもの使う奴はマゾヒストだね、だからあれはMS-DOSじゃなくて、SM-DOSってんだ!」
       このあまりにも幼稚なタワゴトを読まされて、「馬鹿にするな!」と憤るウィンドウズユーザーがどれほどいるだろうか。「高価なマックを買って舞い上がった素人が馬鹿言ってるよ」と失笑するのが精々だろう。その意味で、やはりこれはギャグ漫画以外の何物でもない。少なくとも、グルメ漫画とは言えない事は確かである。
       雁屋はマッキントッシュが偉くお気に入りのようで、美味しんぼの執筆にも大いに役立てているようである。ところで不思議なことに、雁屋に限らずマッキントッシュのユーザーにはウインドウズユーザーに対する差別意識や優越感を持つものが極めて多い。今時5万円も出せばそれなりのものが購入できるウインドウズマシンに対し、マッキントッシュは安くても十数万はする。ましてや、このエピソードが描かれた1996年は、その価格差はさらに大きなものであり、マッキントッシュは「金持ちやプロの道楽」であった。そんな中で、安価なウインドウズマシンは「貧者の味方」であったのだ。ところが雁屋は、庶民でも使えるリーズナブルなウインドウズマシンを「まともな美的感覚があったら使えたもんじゃない!」と一刀両断するのだ。
       こうした、エリート意識から庶民を断罪して悦に入る傲慢さ、実は美味しんぼの全エピソードにわたって広く見られる態度である。農薬まみれの安米を食べる庶民、混じり物だらけの安酒を楽しむ庶民を「日本の酒飲みって最低ね」(第4巻「酒の効用」)、「つくづく日本の酒飲みがなさけなくなったね……」(第18巻「ドライビールの秘密<前編>」)、「日本の酒飲みも地に落ちたものさ」(第18巻「ドライビールの秘密<後編>」)などと馬鹿にし、挙げ句の果ては、そうした馬鹿な消費者のせいで日本の食文化が破壊され、自分達のような高級志向本物志向の人間たちまで迷惑を被っているとまで極言する姿勢に疑問を感じたことのある読者は少なくあるまい。第14巻収録の「椀方試験<前編>」では、海原雄山が「なんという混み方だ!必要もない連中が車に乗るからだ!!」「馬鹿どもに車を与えるなっ!!」と交通渋滞にまで憤っているが、普通なら海原の傲慢さを際立たせるための作為的なセリフに過ぎないと理解すべきところだが、案外大衆蔑視の雁屋がうっかり本音を語ってしまったのかもしれない。それはさておき、これらのような単純で思いあがった主張に呆れかえり失笑する読者も多かったことだろう。そこには、食品添加物や農薬などの使用が食料の大量生産と低価格化、全国隅々への流通を可能にしたという視点はまったくない。最近、「スローライフ・スローフード」や「ロハス」などの主張が、筑紫哲也などを初めとするブルジョアサヨクによって声高に主張されている。そりゃ、億単位の稼ぎのある雁屋や筑紫のようなブルジョアなら、混じり物だらけの安価なソーセージやビールを買う必要は無いのかもしれないが、一般大衆にとっては、高価で雁屋にしか手の届かない「本物のビール」だけが存在する世の中よりは、まがい物ではあっても口にする事ができる選択肢が存在する現状の方が好ましいに決まっている。彼らお花畑的共産主義による「自然保護」や「本物志向」は、資本主義の恩恵を最大限享受しながらそうしたことには目をつぶり食品の質より低価格を選ぶ大衆を蔑視することによって自らの尊大なエリート意識を満足させる麻薬に過ぎないのだ。雁屋は美味しんぼの中でもしきりに化学調味料や食品添加物を批判しているが、このような習慣性のある優越感こそが、雁屋のようなブルジョアサヨクによるグルメ趣味にとっての最高の調味料なのかもしれない。
       そうした麻薬中毒者的なズレた感覚を持つサヨクな人々が集結している場の一つとして上げられるのが、筑紫哲也が編集委員を務める雑誌『週刊金曜日』である。詳しくは別に触れるが、そこで雁屋がかつて連載していた、保守思想批判のプロパガンダ漫画「蝙蝠を撃て!」の中でも、なぜかパワーマックが登場し、保守論客情報などをそこから引き出しているのだが、こうした「オレさまはウインドウズマシンではなく、マッキントッシュを使っているんだぞ!」という幼稚な自己顕示欲は、雁屋のようなサヨクな人々の特性を読み解く上での重要な点である。その裏には、どす黒いエリート意識と大衆蔑視が隠されている事は先に触れた通りであるが、実際その事実を示すように、週刊金曜日でも極めて頻繁に「衆愚」という言葉が出現する。彼らサヨクな人々にとって、石原都知事を選んだ都民は「衆愚」であり、小泉総理と自民党に政権を委ねる日本国民は「衆愚」なのである。
       ところで、伝統的にサヨク勢力大衆というものを自分達より下等な存在であるとみなし、漫画という表現手段を、文章を理解するのが困難な大衆を啓蒙するためのものとして位置づけてきた。週刊金曜日にせよ朝日新聞にせよ赤旗にせよ、そうした「啓蒙漫画」に溢れている。それは、文章表現より一段下の下等な表現手段であり、かつてバブル期にベストセラーとなった石ノ森章太郎「マンガ日本経済入門」(日本経済新聞社)と本質的にはなにも変わらない、「絵解き入門物」に過ぎない。考えてみれば、美味しんぼが文章ではなく漫画でなければならない必然性は、「馬鹿にでも分かる」という点以外は何一つ存在しないのだ。美味しんぼの読者は、この作品をどう読み解いてきたかを自問してみると良い。山岡と海原雄山の愛憎劇に注目しているのか。栗田ゆう子との恋愛劇が気になっているのか。そうではなく、あくまでもグルメトリビアに注目して読んでいたはずだ。それなのに最近は特に、食べ物に怒り食べ物で和解する幼稚な登場人物の数々や、無節操な反日的言動に白人差別、カルト的自然保護など、そうした稚拙な描写が増えており、さすがに飽き飽きして「山岡と栗田の結婚以降は読むのを止めた」という読者は多いのではないだろうか。ましてや、毎回ラストに富井副部長を初めとする登場人物によってお約束のように繰り返されるすべりまくったギャグなど、読み飛ばしてしまっている読者が殆んどだろう。あれなども雁屋自身は、劣った大衆に高尚な理念を理解させるための助けとなるハイセンスなギャグであるとでも確信しきっているに違いない。雁屋が大衆蔑視のあまり漫画という表現手段で啓蒙活動をしようと漫画原作者の道に進んだのかどうかは定かではない。しかし、漫画で思想や社会問題を描くことによって90年代に一世を風靡した小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』に触発されて漫画「蝙蝠を撃て!」の連載を始めたことを鑑みれば、雁屋の腹黒さを読み取る事はそう難しいことではあるまい。もっとも、主人公である自らを相対化し大衆と同じ目線から自らの主張を発して問題に切り込んだ小林と異なり、自らを高みに置いたまま自らの口では主張せずに登場人物の口を借りるという逃げを打っていい加減なプロパガンダを垂れ流し、大衆を啓蒙しようという身も蓋もない傲慢さに無自覚なまま、小林のスタイルを形だけ真似してしまっただけでなく、そこに読者が辟易しているということにまるで気がつかずに結局連載打ち切りに追い込まれてしまったところが、雁屋のようなサヨク人士の病の深刻なところである。
       さて、このような根拠の無き病的なエリート意識が、サヨクな人々に共通した症状である以上、彼らが唱える「反戦・平和」「人権・反差別」などといった一見高尚な理念は、ただのお題目であり、自らを高みに置くためのアクセサリーに過ぎない。実際彼ら反戦・反差別を唱える族が、自らと異なる価値観を持つ人々にどれだけ暴力的、差別的に振る舞ってきたかという例は、枚挙に暇がない。その際たるものが、スターリンやポル・ポトなどによる過去の、そして中国共産党や朝鮮労働党による現在進行形の虐殺や粛清である。国内を見ても、過去には「反戦・平和」を唱える過激派による敵対勢力に対する暴力事件は勿論のこと、「ウチゲバ」や「粛清」と称する仲間殺しは日常茶飯事であった。
       ところで、美味しんぼの中には、自らの権力や影響力を振りかざして横暴な要求をする人々が頻繁に登場する。第1巻の「野菜の鮮度」の回では早々と、その後純レギュラーとなる栄商流通グループ総帥の板山秀司が、自身のデパートで売られている野菜の鮮度について山岡にケチをつけられた腹いせに、東西新聞から百億を超える広告の出稿を全て
      引き揚げるという横暴さを見せ付けている。第10巻収録の「古酒(クースー)」では、文芸評論家の古吉伸一がこれまた山岡から「西洋かぶれのインテリってのも情けないぜ」と言われた腹いせに、何人もの作家や評論家に圧力をかけ、東西新聞への執筆拒否を表明させている。板山に対しては山岡は「あんたが金も力もない一匹狼だった頃、巨大な金の力と権力を振り回して得意になっている人間に対して、どんな気持ちを抱いていたか覚えていますか?」などと語っているが、実際に雁屋が各所で権力を振りかざして得意になっている例を見せ付けられると、常人であれば「お前が言うな!」と叫びたくなるところであろう。その代表例が、週刊文春05年5月26日号でも批判された、『MASTERキートン』絶版事件。である。
       『MASTERキートン』とは、柔道漫画『YAWARA!』で有名な浦沢直樹の作品なのであるが、原作者として勝鹿北星が名を連ねている。ところが、勝鹿が04年に他界した後、勝鹿と親しかった雁屋が何の権利があってか、美味しんぼの出版元である小学館に横槍を入れ、増刷を差し止め、実質的に絶版状態にしてしまっているというのである。浦沢には勿論のこと、読者にも版元にも誰にも得にならないこのような行為に雁屋を駆り立てた物が何であるかは、常人の考えの及ぶところではないが、このような人物が権力を握れば金正日顔負けの圧制者となる事は、火を見るよりも明らかであろう。
       もっとも、雁屋のようなサヨクにとって、「反戦・平和」「人権・反差別」は、自らの優越感を満たすためのただの道具であり、優越感の充足こそが最大の目的である以上、愚劣な他人が権力を振りかざすことを批判しつつ、優秀な自分が同様に権力を振りかざすことは、何の矛盾もないことなのだろう。社民党の辻元清美にも見られるように、他人の不正は「疑惑のデパート」などという低質なキャッチコピーを作り上げて攻撃し悦に入りながら、実は自分は税金ドロボウに励みつつそれがばれて「疑惑の人民公社」と追及されると「あれはワークシェアリングだ」などと強弁して言い逃れようとする卑劣さは、サヨクに一般的に見られる特徴である。このような人類離れした独善的な道徳観を持つ連中に、山岡のセリフを借りて「あんたが金も力もない一漫画原作者だった頃、巨大な金の力と権力を振り回して得意になっている売れっ子漫画家や編集者に対して、どんな気持ちを抱いていたか覚えていますか?」などと言ってやったとしても、恐らく彼らは何の痛痒も感じまい。なぜなら雁屋のような人物は、「自分は特別だから、愚劣な他人には許されないことでも自分だけには許されているのだ」と思いこんでいるに違いないからである。
      自己の絶対化は、当然、他の権威の否定に繋がる。一神教がいかに他の宗教を冷酷無比に弾圧してきたかは、歴史の知るところであるが、自己を一般大衆より上の高見に置いて憚らない、引っ越しおばさん並みに病的なサヨクな人々にも、このはた迷惑な行動パターンは共通している。

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